まだときどき,ふと思い出して落ち着かなくなるので,文章にすることにした.


9月1日の夕刻に母方の祖父が亡くなった.8月19日に92才の誕生日を迎えてすぐだった.
ちょうど私は9月2日から欧州出張だったので,帰国した9月9日午前に母のメイルでそれを知った.
出発直前,出張中に伝えなかったのは,仕事へ集中するように,という両親の配慮だった.
8月上旬から体調悪くてずっと入院して,口から食べられない状態だったから,
正直,いつ旅立ってもおかしくないとは思っていたのだけれど.
しかし成田空港からの帰りの電車,途中の乗り換えのJRのプラットホームで,
夏らしさが残る青空を見上げて,ああ,二度と会えないんだなと思うと,思わず涙が出た.


特に親しかったわけでも,私は全部で10人いる孫のうちの1人ではあるのだけれど.
もう,病院にも,老人ホームにも,自宅にも,みかん山にもどこにもいないんだ,と思うとやっぱり悲しかった.
正月,お盆その他,帰省するたびに会いに行って,特に話すこともなく,ぼーっと一緒に座っているだけなのだけれど,
そういうことが二度とないのかという実感が湧くにつれ,悲しみがこみ上げてきた.


本人は農作業をリタイアした数年前から体が急に不自由で,最後はガリガリにやせて,生きているのが辛かったかもしれない.
それでも生きていてほしいと思うのは,元気な人間の都合だった.
亡くなったら亡くなったで,自分で何もできない状態では生きるのも辛かったろうから,と解釈するのも元気な人間の都合だ.
最後までばーちゃんに気を遣い,電話したがっていたのに叶えてあげられなかった.
家にも帰りたかったのに,結局,今は骨になって戻ってしまった.




でも二度と会えなくなるのではなく,ちょっとの間離れて暮らす.
私もそのうち彼岸に暮らすのだから,そしたらずっと一緒だろう.
そう考えると,いつ終わるかも分からない此岸の暮らしが,ひどく愛おしく,
むしろ此岸の暮らしで会う人との時間が有限で,大切なものにも思えてきた.

此岸を「彼方」として生きる明確な意思さえあれば、人生は「甘美」な奇跡で満ち溢れる。


こうやって悲しみを乗り越える術として,宗教もできてきたんだろうか.
それは分からないけれど,気持ちが落ち着いてきたのは確かだ.


じーちゃん,またあとで.